常識は私たち人間にとって大切なものです。まわりに一人でも非常識な人がいたら、私たちは大いに迷惑します。ところが時として、この常識と非常識の立場が逆転する時があります。それは、みんなが正しいと思っていたことが間違いで、間違いだと思っていたことが、本当は正しかったというような場合です。
たとえば、ガリレオは地球が太陽のまわりを回るという地動説をとなえ、世間を驚かせ、宗教裁判にかけられました。これは当時の人々の常識が天道説、すなわち太陽が地球のまわりを回るという考え方だったからです。コロンブスは地球はまるいと主張し、人々から笑われました。それは当時の人々にとって非常識な考え方だったからです。でも、その非常識がアメリカ大陸の発見という素晴らしい出来事を生んだのです。今となっては当たり前のことが、昔は思いもつかないことだったということに注目して下さい。
私たちは、常識をいう世界にどっぷりとつかって生活しています。もちろん、私はそれが悪いというつもりはありません。ただ、ひょっとしたら常識という言葉に目をふさがれ、大切なことを見失っているようなことはないだろうかと思ったからです。というのは、最近私が、こんな話を読んだせいかもしれません。
ある日、幼稚園の先生が子供たちと野原に出かけた時のことだそうです。一匹のチョウがクモの巣にかかってバタバタともがいていました。それを目にした先生は「まあ可哀そうに」といってクモの巣を破りました。チョウは嬉しそうに空に舞いあがります。先生は、ちょっぴりいい気分になりました。その時です。「先生、そんなことしたらクモが可哀そうだよ」と一人の男の子が叫びました。ムッとした先生。「まあ、なんて悪い子、〈いのち〉の尊さが分からないなんて」口には出さなかったけど、そう思ったのは事実だそうです。でも、この先生が偉かったのは、これから先です。「あんなふうに思ったけど、ひょっとしたら、あの子が言ったことは正しいのかもしれない。だってクモにも〈いのち〉はあるんだもの」それからの先生は、今までの常識を捨てて、どうやったら子供たちに〈いのち〉の尊さを教えられるのか考えているそうです。素晴らしいことだと思いました。
常識よりも大切なのは、自分の頭で考え、自分の責任で事にあたる勇気です。そうすれば、常識よりも素晴らしい知恵を私たちは仏さまから授かるかもしれません。