電話は現代の世の中には欠かすことの出来ない機械です。
「昔は、電話のある家なんて珍しかったですよ。私なんか、大家さんの家まで借りにいったものです」と明治生まれのお婆さんは話します。「だから、電話をかけても、伝えるのは大切な用件だけでした。よそさまの機械を使わせていただくのですから、長話なんて出来ませんでしたよ。もし、もしといって相手が出たら、手短かに話すのが礼儀でしたからね」といったのです。
その後のことですが、私はお婆さんがいった「もし、もし」の語源を知ることが出来ました。私たちが電話をかける時、口グセになっているこの言葉は、「申し上げます、申し上げます」という言葉が短縮されたものだというのです。
申すという言葉は、今では「いう」という意味ですが、昔は「いう」という意味に三つの使い方がありました。たとえば、偉い人は「のたまわく」、普通には「いわく」、そして自分が一歩下がっていう時には「申す」となるのです。それならば、これは電話をかける時のエチケットなのかもしれません。
ある電話の対応コンクールで見事優勝したOLは、「ありがとうございます」といって電話に出た時、本当にお辞儀をしながら相手と話していたとか。たとえば姿は見えなくても、その心が伝わって来るのが、電話というものなのかもしれません。
その電話も時代と共に形が変わってきました。その最たるものが、ケイタイ電話でしょう。明治生まれのお婆さんの言葉を借りるなら、「歩きながら話をするなんて、とんでもないことです」となるのですが、案外、そうでもないホットな出来事があったからお知らせしましょう。
私のお寺の檀家さんで、息子さんが交通事故で亡くなったお家があります。七日経にお伺いした時のことでした。お経をあげている私の目の前で、突然、電話の発信音がしたのです。ビックリした私に、お父さんがあわてて、「すみません。息子のケイタイをお骨の横にお供えしているのです」というじゃありませんか。
「実は、このケイタイに友達からメールが入るんです」と釈明しました。聞けば、その内容は「おい、あの世で元気にしてるか。俺は彼女が出来たぞ」とか、「俺、職が決まったぞ。死んだお前の分まで頑張るからな」というものが多いとか。私は嬉しくなってしまいました。
たとえお互い姿は見えなくても、心は伝えたいという気持ちが、今の若者にもしっかりと残っているのだなと思ったからです。