先祖を供養するということは、自分を供養することです。
いきなり、こんな事をいえば、聞いたあなたは、「変なことをいう坊さんだな」とお思いになるかもしれません。そこで、今日は、その言葉の中にある私の本当の気持ちを、あなたにも知っていただきたいと思います。
実は、私が判じ物のような発言をしてしまったのは、ある若者が、「先祖なんて、今の僕にとっては、何の関係もありません」と、ご法事の席で発言した時のことでした。それに対して私が、「君は、本心から、そう思っているんですか」と尋ねると、「はい、そうです。僕たちにとって大切なのは、先祖よりも個人でしょう。いのちは一つ、それを僕は、僕の責任で生きたいんです」と答えたのでした。
最初は、若者がいい加減な気持で、こんな発言をしたのかと思った私も、この言葉には、「うーん」と考えさせられました。若者の言葉にも、それなりの正しさがあると感じたからです。
お釈迦さまは、何よりも、今ある(いのち)を大切にしなさいとお説きになっておられます。しかし、同時に、その(いのち)は、決して個人のものではないともお説きになっているのです。言葉を代えていうならば(いのち)は縁によって生じたものであるとお説きになっているのです。
その事を若者に気づいてほしいと思った私は、ふと、日本には襲名という伝統があることを、思い出しました。襲名というのは、名前を襲うと書きますが、それは、親や師匠の名前を、子や弟子が受け継ぐことをそういいます。今も歌舞伎や落語、それに国技といわれている相撲の世界で、その伝統が残っているのは、ご承知でしょう。
ある本には、襲名というのは、「個人のいのちは限りがあるが、その名前の下に、文化のいのちの限りなき発展を願うものだ」と書かれていました。たとえば、歌舞伎の世界では、今も、市川團十郎や尾上菊五郎という名前が受け継がれています。その上には、何代目という但し書きはあるものの、受け継いだ者は、それぞれの伝統のある名前の下に、自分自身の人生を精一杯生きようとしているのです。
そのためには、親も師匠も、その名前を受け継ぐだけの資質を持つようにと一生懸命、子や弟子を育てるのです。その思いがなければ、たとえ親子でもあろうと師弟であろうと、ご縁は切れてしまいます 。
だから、私は若者に、こういったのです。「自分の中にある(いのち)のルーツを考えてごらん。そうすれば、先祖に手を合わせることが、自分に手を会わせることになるんですよ」と。