日本語の中には、同じ言葉でも全く反対の意味になるものがあります。たとえば「結構です」という言葉。「これをあげましょうか」と聞いて「結構です」と答えられたら「要りません」というノーの返事。「一緒に行きませんか」と誘いかけて「結構ですね」と言われたらOKの返事という事になります。
もちろん、相手の表情で、その意味は伝わってきますが、仏教の言葉の中にも、現代使われている意味とは全く違った意味を持つ言葉があるのです。たとえば学問のない人、教養のない人を「あいつは無学な奴だ」と悪口をいいますが、お経の中では無学というのは、これ以上学ぶことのなくなった偉い人のことを意味しています。それと同じように現代では「無分別」というのは、常識のない、軽はずみな思慮の浅いことに使われますが、お経の中では、分けへだてを離れて、すべてのことを平等に見れる仏さまの悟りの意味に使われているのです。
良寛さんが越後の国上山の五合庵に住んでいた時の話です。一人の旅人が良寛さんの庵を訪ねました。良寛さんは「それは遠いところを、ようこそ」と出迎え、旅人が足を洗えるようにと水を用意してやり、お茶や夕飯を出して接待しました。すっかり感激し、この庵で一晩をした旅人は、あくる朝、顔を洗うために良寛さんが用意してくれた器を見て、オヤッと思いました。どこかで見たことがあると思ったら、昨日、足を洗った鍋です。それに夕方ご馳走になったお粥も、たしかこの鍋のようだった。そう思うと旅人は良寛さんの無神経に腹が立って、文句を言ったのです。すると良寛さんは「ああ、そうじゃよ。なにしろこの庵には鍋は1つしかないからな。私は、なんにでもこれを使っているんじゃよ」と答えながら、さっさと朝のお粥の支度にかかったのです。もちろん、道具はこの鍋です。「お前さんは、汚いものときれいなものとを分けて使うのが正しいと思っているようじゃが、なあに、洗えば、みんなきれいになってしまう。その証拠にお前さんの迷いの心も、この山に来てきれいに洗われたはずじゃ」そう話しながら出来上がった山芋のたっぷり入った良寛さんの手作りのお粥は、心まであたたまるおいしいお粥だったそうです。