人生は単なる結果を求めるよりプロセス(過程)を大切に考えなければなりません。現代は、せっかちな人が多く、やたら結論だけを手に入れたがる傾向にあります。かくいう私も、ビデオを見る時は、きまって早送りをして結末を確認する事に気づかされました。機械文明の発達が、欲しいものをその場ですぐに与えてくれる環境を作り出し、それにつれて物事の考え方も随分と変わってきました。流行り言葉でいうなら〈短絡思考〉が増えています。一体これでいいのでしょうか。

 

 昔、とてもせっかちな男がいました。ある日、山向こうの村まで用があって出かけることになり、朝めしも食べずに家を飛び出したのです。あんまり急ぎすぎたので、便所に行くのも忘れる始末です。ところが峠にさしかかった頃、どうにも我慢が出来なくなり、近くのヤブに飛び込んで用を足すことにしました。人間出すものを出すとスッキリします。ほっとして立ち上がった男は、今度はお腹が空いていることに気づきました。そこで、道端の石に腰かけると、女房が作ってくれた弁当を腰からおろしました。ところが急ぐあまり、広げた包みを落としたのです。中のおむすびはコロリコロリと坂をころげます。そして運悪く、先ほどのヤブの中に入ってしまいました。さすがにこれでは拾う気にはなりません。お腹はグーグーなるし、困ったなあと思ったけれど、おっちょこちょいなこの男は「なあに食う手間がはぶけたってもんだ」と先を急ぐ事にしました。「どの道、最後は尻から出てしまうんだ。これからも腹の空くのさえ辛抱すれば、用を足す時間も節約できる」と、自分の思いつきに自分で感心しながら「そしたら、なにも汗水たらして田んぼを作ることもないし、遊んで暮らせる」と考えを飛躍させたのです。でも現実はそうはいきません。日の暮れる頃には腹ぺこで足がふらつき、目がまわりそうになりました。やっとの思いで村にたどり着いた時、男は「なんでもいいから食わせてくれ、これじゃ用を足す元気も出ない」と叫んだそうです。

 

 馬鹿馬鹿しい話ですが、なんとなくこの男を笑えない気がするのです。1分1秒を争う現代社会は、あせるあまり、インスタントな発想をします。その揚句が、朝食抜きで出かけるサラリーマンや子どもたちの悲劇を生みだしています。これでは健全な考え方は生まれません。手作りの生き甲斐ある人生を求めてはいかがでしょう。仏さまの教えは、そのための道しるべなのです。