「近頃は世の中が悪くなった。昔はよかった。もっと人間が純真だったのに」というお年寄りの話をよく聞きます。
戦後生まれの私には昔がどんなだったのかはよく分かりませんが、たしかに現代は人間関係がギスギスしたものになっているような気がします。若い人の話を聞いても「所詮、人間なんて自分が可愛いいだけのエゴのかたまりさ」とシラケたことをいって、さも世の中が分かったようなふりをします。でも、仏さまはそんな自分勝手な生き方が人間の本質ではないと教えてくれています。
お経の中に、こんな話があります。
ある所に、その日の暮らしにも困るような生活を送っている男がいました。ある日、男は金持ちの友達の家を訪ね、食べ物と一夜の宿を乞いました。友だちは喜んで、この男を自分の家に招き入れました。その日は遅くまで語り合い、酒を汲みかわしたのですが、男は旅の疲れから、まもなく眠りこんでしまいました。友だちは目の前でだらしなく酔って寝ている男のみすぼらしい姿が気の毒でなりませんでした。
そこで彼の為に、一つのすばらしい宝石を彼の衣服の裏に縫いこんでやって、出かけていったのでした。目をさました男は、そんなことはつゆ知らずまた、さすらいの旅に出かけて行きました。それから何年か経ち、男は、あの時の友だちに道でばったりと出くわしました。友だちは、彼の相も変らぬ貧しい身なりを悲しげにながめて、「なぜ私がぬいつけておいた宝石を、君は使わなかったのだ」と尋ねたのでした。お釈迦さまの話はここで終わります。
この話で、お釈さまは一体なにを私たちに訴えたかったのでしょう。友だちとは、お釈迦さま、貧しい男とは私たち凡夫のこと、宝石とは〈仏さまとなるべき種〉仏性をあらわしています。お釈迦さまは、どんな人間にでも、仏となる種を心の中に縫いつけて下さっています。
「私が縫いつけたその種をすこやかに伸ばして欲しい」それが仏さまの願いなのです。