坊主頭というのは、文字通りお坊さんの頭です。だから散髪をした後、「ああ、すっきりしたなあ」と丸くなった頭を見ながら、何度か撫でたりするものなのです。
そんな仕草をしていたら、お釈迦さまが遺言されたというお経の中に、「汝ら、仏の道を志す者たちよ、まさに自らの頭を摩すべし」という言葉があるのを、ふと思い出しました。
摩すとは、撫でるということです。仏の道を志す者は、毎日のように、頭を剃ることになっていました。それは修行者として、自分の行いに誤りや怠りはないかと反省するための作法でもあったのです。言葉を代えていうなら、たとえ、失敗しても、またやり直そうと誓うのが、頭を丸めるということだったのではないでしょうか。
そういえば、今でも、自分が約束したとおりに事がならなかった時、坊主頭になってお詫びするなんていいますよね。そんな時、照れ臭くて、エヘヘと笑いながら頭を撫でている光景をよく目にするものです。だけど、心の中には、「今に見てろよ、俺はきっと一人前になってやるから」という決意が、ひそかに固められているではないでしょうか。
そう考えていた時、もう1つ思い出したのは、他人から頭を撫でてもらったことでした。
遙か昔のことですが、父のお伴をして檀家さんにお詣りに行った時、「坊ちゃん、偉いわねえ、お父さんのようにお坊さんになるんでしょう」と頭を撫でられた時、本当は、いやいやながらついて行ったのに、妙に嬉しくなってしまったのです。
「へぇ、お坊さんになるって偉いことなんだ」という意識が心のどこかに芽ばえたのでしょうか。私は、いつの間にか、檀家さんのそんな期待の中で、お坊さんになる道を歩まされたような気がします。
そういえば、法華経の中にはお釈迦様が人々のために教えを説こうと決意する人を、そのお衣の中に包んで、「私はこの人を見守って、いつもこの人と一緒にいるであろう」と語りながら、頭を撫でられたという物語が出てきます。
たとえ檀家さんが、仏さまではなかったにしろ、仏さまと同じような気持ちになって、幼い私を励ましてくれたことに、違いはありません。
荒崎良徳さんという和尚さんは、お父さんが74歳の時、49歳になった自分の頭を何度も撫でて下さったという思い出を、『法華経を拝む』という本の中で語っています。
癌になり、余命いくばくもないというお父さんが、ベッドの中で、後事を託すかのように頭を撫でたというのです。その手に無上の重みと、暖かさを感じたものだったと、良徳和尚は語っていたのです。