近世西洋哲学の父といわれるフランス人、デカルトは世の中にある全てのものを疑うことによって、学問の道を切り開きました。疑うことは悪いことだと思っている人がいるかもしれません。だけど、疑うことによって、信じられるものが見つかるともいいます。
たとえば、子どもたちが、よく、「どうして?」とか、「なんで?」と尋ねるのは、疑うことによって、もっと世の中のことを知りたいという願いがあるからではないでしょうか。いわばデカルトは、そんな人間の心の原点に立って、物事を考えたのです。そして結論として出した答えが、「我思う、故に我あり」という言葉です。すなわち、どんなに疑っても、私が今、ここにいるということは、まぎれもない真実である。その真実をしっかりと受け止めて、物事を考えていこうというものだったのです。
哲学のデカルトならずとも、わたしたち人間は誰しも自分を大切にしたいと思っています。人生は自分探しの旅だという人もいますが、近頃では、自分の一生を振り返り、書き残しておきたいという人が増えているとも聞きます。いつかは、世の中という舞台から去っていかなければならない私たちです。なんとかして、この世に存在したという証を立てておきたいというのも当然な願いでしょう。
そんな願いを、なんとか、末期ガンで苦しんでいる人々に叶えさせてあげたいと、ニュージーランドでは、ボランティア活動が行われているという話を読みました。柏木哲夫さんというホスピス医療に携わっているお医者さんの報告です。患者さんに、これまでの人生を語ってもらい、それを、ちゃんと記録に残してあげようという活動です。
中には、自分の実績を語る人もいたかもしれません。あるいは、いろんな恨み辛みを打ち明けた人もいるでしょう。ところが興味があることに、誰もが、それぞれの人生を歩みながらも、最後には、「考えてみれば、自分に出来たのは、ほんの僅かな事、人生の大半は他人に助けられ支えられて生きてきたんだなあ」という思いを語っているということです。
そして、多くの人が、最後には感謝するという気持ちを取り戻すのだそうです。この世を去る時、感謝という気持ちで別れを告げられたら、どんなに素晴らしいでしょう。
私たち仏教徒の教えの父、お釈迦さまもデカルトと同じように、自分を見つめることによって真理を覚(さと)られました。しかし、その結論は、自分というものは、縁という法則によって、今を生かされているのだというものでした。言葉を替えていうなら「我思う、縁あるが故に我あり」という感謝の念から仏の教えは始まっているのです。