家族の絆、そんな言葉が、だんだんと忘れ去られようとしています。辞書で、絆という意味を調べてみると、もともとは、絆というのは、牛や馬などの足をつなぐ縄のことをいったのだとか。

 

 そのことから、絆というのは、人々の自由を束縛するものの意味にも受け止められていた時代もあったようです。しかしながら、家族の崩壊が社会現象となっているこの時代、絆という言葉の意味が問い直されているのも事実なのです。

 

 先日、お寺に親子五人でお参りに来られた家族がありました。ご供養をすませ、お茶をお出しした時、ご主人が、こんなお話をしたのです。ご主人は、私よりも年は下ですが、定年を間近に控え、「これからの人生を、どう過ごせばいいかと考えています」という言葉を口にしました。

 

 「実はですね、この間、子供たちに、『もし俺たち夫婦が寝たっきりになるようなことがあったら、誰が面倒をみてくれるんだい』と尋ねたんですよ」といったのです。私も、今年で七十歳。同じような不安は心の中になります。

 

 「その時、子供たちが、どんな顔をしたと思いますか」とご主人は言葉を継ぎました。「三人の子が、三人とも、お互い答えずに、顔を見合わせたんですよ。私は、その態度にプッツンしましてね。『いいか、お前たち子供は、生まれて来た時、誰もが、寝たっきりだったんだぞ。食事をするにしろ、下の世話にしろ、みんな俺たち親がしてやったんじゃないか。それを考えれば、寝たっきりでも、一年くらいは親の面倒をみるのが恩返しというもんだろう』と言ったんですよ」と。私も、その通りだと肯きたくなりました。

 

 ところが、この話は、それから大逆転が起こったのです。ご主人は、一呼吸おくと言いました。「その時、娘が、『じゃあ、お父さん、一年面倒みたら、すぐに、あの世に逝ってくれるの』と言ったんです。私は、『そんなこと分かるか、今の俺に分かるのは、その時、お前たちに、ありがとうと言って、この世を去れる、家族の絆が欲しいということだけなんだよ』と言ってしまったんです。そしたら、みんなが大笑いしました。すると息子たちも、『よかったな。今日はおやじの本音が聞けて』と言ったのです。そこで、それなら、久しぶりに親子そろって、今度の日曜日には、お寺にお参りして、お爺ちゃんやお婆ちゃんのご供養をしてもらおうということになったんです」とご主人は結論を話してくれました。

 

 この話を聞きながら肯く子供さんたち。こんな時には、喉を越すお茶からも甘露、甘露という響きが聞こえてくる気がするのです。