いろんな場所で改革が叫ばれている時代です。だけど掛け声だけ大きくて、改革は思うように進んでいないというのが現実ではないでしょうか。

 

 そんなことを考えていたところに、1人の若者がお寺にやってきました。「何かご用ですか?」と尋ねる私に、彼は「実は、ボク自身がボクを嫌になってしまったんです。どうすればいいでしょうか」と言ったのです。難しい言葉を使うなら、自己嫌悪、それは若者が人生という道でぶち当たるひとつの壁だともいえるでしょう。「そうねぇ、ボクにもそんな経験があるけど、自分で自分を嫌いになって、どうするの。嫌いな自分なんて、誰も好きにはなってくれないよ。まずは好きな自分をイメージして、それに向かって努力することじゃないかな」とアドバイスしてみました。

 

 それというのも、前の日に女房から、「あなた、少しは部屋を片付けたらどうですか。散らかし放しで、よく自分が嫌になりませんね」と言われていたからです。その時は「分かったよ。俺だって、これじゃいかんと思っていたところだ。今日は忙しいから明日ちゃんとするよ」と答えたものの、明日が今日になっても、まだまだ散らかしたままだったからです。

 

「だからね、君、明日しようなんて思ったらダメだよ。思い立ったが吉日という言葉もある。よし、今日からやるぞという気持ちが、きっと君自身を変えると思うよ」と少し強く言いました。「そうですね、『今日』、それが大事な事なんですね」とうなずいて、本堂に手を合わせて帰っていった若者。それを見送りながら、「人に言った以上は、自分も実行しなくちゃ」と考え直した私ですが、このアドバイスには、実は隠しネタがあるのです。

 

 それは昔、仏さまの教えを学ぶために海を越えて修行に出かけた元光というお坊さん。彼は坐禅の本場である中国に、海を越えて渡り、大覚禅寺というお寺の門を叩きました。「私は日本からやってきた元光という者です。どうかお弟子にして下さい」と頼みました。これを聞いた住職の名峰和尚、手にした筆で、元光の腕に「明日、おいで」と書いて追い返しました。その腕に書かれた字を眺めた元光は、急いで井戸でその字を洗い流すと、再び寺の門に立ち、「私に明日はありません。あるのは、ただ今日のみです」と大声で叫んだとか。その覚悟を知って、和尚さんは、「仏の教えは、そこにある」と答え入門を許したという話です。

 

 他人によりかは、自分に言い聞かせねばとわが身を恥じている私なのです。