暑い夏の最中の8月4日の深夜、私の50年来の親友、いや尊敬する先輩の中村潤一上人が78歳でなくなられました。4月より体調を崩し、入院をされていましたが、新コロナの影響でお見舞いも出来ぬままの浄土への旅立ちでした。
これから紹介するお話は、日蓮宗新聞9月号に寄稿した原稿です。上人の供養のためにと、コラムで紹介させていただきます。
『8月5日、この日は不思議と朝4時前に目が覚めました。ふと、そばの携帯に目をやると、「夜分すいません。潤一上人が4日深夜に遷化(亡くなる)しました。」とのメールが入っているではありませんか。私は、急ぎ真浄寺に向かい、安置された潤一上人に向き合ったのです。まだぬくもりが残る額にそっと手を添えると、上人と過ごした様々な記憶がまるで映画を見ているかのように蘇ってきました。中村潤一上人、いや、「潤ちゃん・松ちゃん」と呼び合った仲です。潤ちゃんと呼ばせてもらいます。
潤ちゃんとの出会いは、50年近く前になりますか。確か潤ちゃんが、まだ新婚の頃だったと思います。私より6歳年上で兄貴のような存在でした。「あんなこと・こんなこと、あったでしょう」との歌の文句ではありませんが、数え切れない潤ちゃんとの思い出での中で、1つあげるとすれば、昭和55年3月に放送が開始された「テレホン説教地涌の声」を始めた事でしょうか。
「週に1度は心の洗濯」のキャッチフレーズで10円玉一枚で、3分間の説教が電話で聞けるという、当時としては画期的なものでした。「社会と共に生きるお寺作りをしよう。苦しみ、悩んでいる人達に仏の教えを伝えよう」との潤ちゃんの誘いで、5人のメンバーの一人として気軽に参加したのはよかったのですが、5週間に1回、1000文字のお説教を考え、自分の声で録音するという、大変な苦労が待ちうけていたのです。
わかりやすい内容で、最後は仏の教えで締めくくるという、難しい要求。毎回、恐る恐る潤ちゃんに原稿を差し出すと、高い確率で、一読するなりビリビリと破られ、「こんな内容で、聞く人にすまないと思わないのか、書き直せ」との親からも受けたことのない、厳しい言葉をあびせられたものです。潤ちゃんの夢は放送にとどまらず、様々な活動に発展していきました。おのずと、メンバーに対する要求もハードルが高くなり、私自身、何度退会しようと思ったことか。
そんな潤ちゃんがある日ぽつりと「俺が死んだら葬儀の導師は、松ちゃん、頼んだぜ」との思いもよらない依頼。あれだけ原稿を破られた私です。「あの時、原稿を破っていたのは、愛の鞭で、本当は俺を認めてくれてたんだ」と、思ったのもつかの間、笑いながら「ただし嘆徳文(故人一生の徳をたたえる)は俺が死ぬ前に書いてくれよ。しっかり添削するから」との言葉。私はガクッときながらも「どっちが先に死ぬかわからんよ」と返事したのを覚えています。
9月29日は潤ちゃんの本葬儀です。全国から、友人やファンが集まります。潤ちゃんや参列者が見守るご宝前で、私は、歎徳文を読み、潤ちゃんの生き様を、仏様に、ご報告します。生前約束した、事前に検閲も訂正もしてもらえませんでしたが、霊山浄土の潤ちゃんから「よく出来たね、手直しなし」といってくれるように導師を勤めたいものです。』
いかがでしたか。9月29日当日は雲ひとつない晴天の中で、私は無事に、葬儀の導師を務めさせていただきました。お堂内外には、3密を避けなければならない中、たくさんの人たちが潤一上人との別れを涙を浮かべながら惜しんだのです。葬儀は、その人の人生の総仕上げです。参列した多くの人たちの思いを抱き、潤一上人はお浄土へと旅立たれたのです。