私たちが仕事をする場合、よく「ノルマ」という言葉を使います。いったい、どこの国から来た言葉だろうと思って辞書で調べてみると、ロシア語とありました。そして、その意味は、労働者が、一定の労働時間の中でやりとげなければならない生産責任量だと説明してありました。なるほど、そんな意味だったのかと思いながら、私は先日、東京で乗ったタクシーの運転手さんとの会話を思い出したのです。タクシーの運転手さんは、日銭商売、その日その日で稼ぎに大きな差があります。「失礼だけど、一日にどれくらい稼がなければというノルマがあるんですか」と私は尋ねました。「別にありませんよ」という答えに「それじゃあ楽ですね」というと「冗談じゃありませんよ、お客さん。ノルマはないかわりに、私たちは競争がきびしいんです」と運転手さんが話し出しました。「ノルマがあれば、これだけ稼げばいいという目安が立つでしょう。でもうちの会社では水揚げの競争をさせるんです。平均以上の水揚げのあるものは、褒められるけど、それ以下の者はぼろくそにいわれるんですよ。会社はそれで収入をあげようと思っているんでしょうが、働く者はたまりませんよ」とボヤきました。

 

 その時、わたしはノルマ以上にきびしい競争が現実の社会にはあることを知ったのです。

 

 私たち坊さんの仕事にもノルマはあります。でも、今日、いくら稼がなければならないということはありません。まして他人との競争で毎日神経をすり減らすということはないのです。

 

 「お客さんみたいな仕事は、その点いいですなあ」という運転手さんの言葉に肯きながら、私は逆に坊さんはぬるま湯につかっているのではないだろうかと反省しました。きびしい世の中の現実を知らなければ、本当に血の通った説教は出来ないと思ったからです。すると運転手さんが「でも坊さんが稼ぎに血眼になるようになったら世も末ですなあ」といいました。「おやっ」と思った私が「どうしてですか」と聞くと「だって、私たち凡夫はお寺ぐらいは、世間の常識と違うものであって欲しいと思っているからですよ」と答えたのです。

 

 世の中の競争がきびしければきびしいほど、人々はその反対の心の安らぎを宗教に求めるのかもしれません。それならば坊さんも、稼ぎとは違った意味の「ノルマ」以上の仕事をしなければならないのではないでしょうか。私は運転手さんに「お互い頑張りましょうね」といってその車を降りたのでした。