私のお寺の山号は、祇園山(ぎおんざん)。昔、お寺のあたり一帯が祇園山(やま)といわれていたからだと師父からその由来を聞きました。でも私はその名前から、遥か昔、お釈迦さまが法を説いておられたインドの祇園精舎を思い浮かべるのです。
その祇園精舎をお釈迦さまに寄進したのは、コーサラ国のスダッタという大金持ち。そのスダッタの召使いの一人に、親を失ったサーヤという子がいました。彼女の仕事は、赤ちゃんの子守り。夕暮れ時になると、それぞれの家に帰る子どもたちをながめながら「なんで私には帰る家がないの、どうして、お父さんもお母さんも死んでしまったの」と小さな胸は寂しさでいっぱいになるのでした。
そんなある日のこと、野原の向こうから、こんな声が聞こえて来たのです。「そびえる山は、父の影。流れる河は母の声。移りて変わるこの世にも、心安らぐ法(のり)の道」見れば、1人のお坊さんが歩いています。幼いサーヤには、その言葉の意味はよく分かりません。でも、その声のリズムのあたたかさに惹かれた彼女は、我を忘れて、その後についていったのでした。そして着いたところは、サンガというお坊さんたちが修行をする林の中。そこにはたくさんのお坊さんが集まっていて、真ん中に坐っている人の話を熱心に聞いていました。
その時です。「よく来たね、お嬢ちゃん。今日はあなたにも分かる話をしてあげよう」と真ん中の人がサーヤに話しかけました。彼女はびっくりしました。今までそんなやさしい言葉をかけてくれる人は誰一人いなかったからです。サーヤの心の中にパッと明るい光が差し込みました。「お嬢ちゃん、その明るい笑顔だよ。その笑顔こそ、あなたの宝なのだよ。みんなにその笑顔で接しておくれ。そうすれば、あなたも、あなたのまわりもみんな明るくなるんだよ」そう語りかけられて、サーヤはコックリうなずいたのです。
それからのサーヤは変わりました。いつもニコニコしているのです。背中の赤ちゃんも、そんなサーヤになついています。不思議に思った主人のスダッタが「どうした心境の変化だね」と尋ねると「これは私の修行なんです。たとえお金がなくても、親がいなくても、幸せになれる道があるとあの方が教えて下さいました」と答えたサーヤ。あの方とは勿論、お釈迦さま。これを聞いたスダッタは早速お釈迦さまの所へ出かけ、その信者となったのです。思えば、祇園精舎の縁結びをしたのは、貧しいサーヤでした。自分のお寺にも縁のある話だけに、彼女の親しみを感じた私なのです。