もしも自分が金持ちだったら、お寺にでも、世の中のためにでも、沢山寄付をするのに。そんなことを思っている人のために、こんな仏教説話をご紹介しましょう。
ある村に、町で大儲けをした男が帰って来ました。昔は村一番の貧乏だったので、先祖のお墓のあるお寺にも、とんと寄りついていませんでした。そこで今までの罪ほろぼしにと、百両のお金を包んでお寺に出かけました。そして、「なにかお寺さんのために使って下さい」と差し出したのです。和尚さんはニコニコしながら受け取ってくれました。ところが男が期待していたほどの言葉は、和尚さんから返ってきませんでした。「出し方が少なかったからかな」そう思った男は思いきって「ひとつお寺に山門を寄付させて下さい」と申し出ました。それでも和尚さんは「ハイハイ」と言っただけ、「ご寄徳なこと」とも「ありがとう」ともいってくれないのです。頭にきた男は「和尚さん、どうしてほめてくれないのですか。もっとお礼を言ってくれてもいいじゃないですか」とむくれました。その時和尚さんは「お前さんは、ご先祖の供養のためにするんじゃろう。それならわしが礼を言うのは筋違い。もしわしが礼を言って、お前さんがいい気になったら、功徳はいっぺんに吹っ飛ぶぞ」と喝を入れたのです。「いいかな。布施はさせてもらうもの、感謝されるためにするものじゃない」と論じたとか。
これに相通じるような話があります。かつてベトナム難民センターが設置されていたころ、難民センターには一般の人々と同じようにお坊さんも収容されていましたが、配給や食糧はお坊さんには支給されないそうです。いったいなぜなのでしょう。それは、どんなに貧しい人々でも、ベトナムの仏教徒には布施をする習慣があるからだそうです。だから収容者たちは、ギリギリの配給の中からでも少しずつ出しあってお坊さんに供養するのです。もしお坊さんが、わしも一人前、配給を受ける権利があるといったら、人々は布施をするチャンスを失ってしまいます。そこでお坊さんは配給を受けないかわりに、みんなからの布施は喜んでうける。ただし、礼は言わないのだそうです。
私たち日本人には、ちょっと理解しにくい習慣ですが、それは、布施をする人も受ける人も心が清らかでなくてはならないということなのでしょう。そして布施をする品物も清らかでなければならないとお経には説かれているのです。