縁によって人生は結ばれているといいます。縁というのは、いうまでもなくお釈迦さまの教えの中にある言葉です。「人は1人で生きるのではない。多くの人との関わりによって生かされているのである」とお釈迦さまはお説きになっています。
でも私にいわせれば、縁といっても、ありがたい縁もあれば、ありがたくない縁もあるじゃないかといいたくなるのです。このありがたい方の縁をお経の言葉では、順縁といい、ありがたくない方の縁を逆縁というのです。お互い、ありがたくない縁は欲しくありませんよね。
ところが、そのありがたくない縁をありがたい縁だったと述懐している人がいるので、ご紹介しましょう。
その人とは、ライオン歯磨を創設した小林富二郎さんです。小林さんは、この会社で成功するまで、何度も失敗しています。自殺さえ考えたことがあるそうです。そんな時、ふと手を突っ込んだポケットの中で触れた一枚のハガキ。それは知り合いの牧師さんが送ってくれたものでした。読んでみるとバイブルの言葉が書いてあります。少し難しい語句なので、私なりに訳して、みなさんにお伝えしたいと思います。
「いかなる懲戒(こらしめ)も、それを受ける者にとって、今は喜ばしき事とは思えないだろう。むしろ悲しい思いで、それを受け止めるに違いない。しかしながら、この懲戒によって我が心を鍛える者には、いつの日か平安なる心の実が結ばれるだろう」というような内容でした。
これを読んだ小林さんは、「ウーン」と唸って、「もし神という者が、この世にあるならば、今までの数多くの失敗は、神が俺に与えた試練だと受け止めたらいいのだろうか。それならば死ぬわけにはいかない」と発奮して、ライオン歯磨の今日を築き上げたのです。
そして成功した後も、このハガキの言葉を人生の教訓として常に傍らに置いているのだとか。
人生の幸、不幸は糾える縄のごとしという言葉もありますが、不幸を幸福へと転じられるのは、やはり人の心ではないかと思うのです。幸いにして小林さんは、一枚のハガキから立ち直りのきっかけを掴みましたが、そのきっかけを掴む神さまは、小林さんの心の中に居たと私は考えるのです。
縁を生かすも生かさないも、つまる所は、心がけ次第。求める気持ちが大切だと思うのです。
お釈迦様はお説きになっておられます。「縁に生かされている己を知れば、他をも生かす道をも、きっと見つけ出すであろう」と。