私には、91歳になる母がいます。元気だった母も今ではすっかり身体も弱り、施設のお世話になっています。皆さんご存知のように、コロナ禍で面会もままならない中、よく母との出来事を思い出すことがあります。今から30年くらい前の話です。

 

 お寺に帰って来るなり、「今日は感動したわ」といったのです。我が家の家族は「なんだ、なんだ」と母のまわりに集まりました。すると母がまず発したのは、「近頃の駅は、不親切ったらありゃしない」という言葉でした。「年寄りを馬鹿にしているわ」というのです。そして、「昔は、あんなじゃなかったわ、なによあの機械は」といまいましげにいうのでした。あの機械というのは、今ではあたり前の自動改札機のことです。久しぶりに博多まで出掛けた母が、その帰りに駅の改札口を通ろうとすると、駅員さんはいなくて、行く手には長方形の箱があるだけだったというのです。キップを持ったまま母は、「どうすればここを通り抜けられるのだろう」と立ち止まって考えました。すると、「婆さん、邪魔だ、邪魔だ」といわんばかりに会社帰りのサラリーマンやOLが母を押しのけるようにして改札口を通っていったというのです。「腹が立ったわよ、今の若い人は人情もなにもないってね」という母。だけど、そこから母の話は180度、逆の方向に変わっていったのです。

 

「そんな時だったわ。あの男の子が声をかけてくれたのは」と母は何かを思い出すように眼を潤ませていいました。「小学校1年生くらいだったと思うけどね、『おばあちゃん、入り方が分からないの?』っていったのよね」。母は素直に「うん」と肯いたのだそうです。すると男の子は「ぼくがするのをよく見てね」といってキップを入り口に入れると、ゲートをくぐり、向こうの口から出てきたキップを握って、「これを取るのを忘れないでね」といって、「ほら、おばあちゃんもやってごらん」といってくれたのです。そして母が改札口を無事に通り抜けるのを見守って、「分かれば、かんたんでしょう」といったとか。

 

 「本当に嬉しかったわよ。天使ってあんな子どものことをいうんじゃないかしら」と母は大感動です。「なあんだ、そんな事だったの」という私に、母は大むくれ。「そんな簡単な事でもあなたには教えてくれる親切心がありますか」と逆襲しました。そういわれれば、こちらは一言もありません。

 

 「便利になるのはいいけれど、その便利さが、人の心を失わせているような気がしてならないのよね」と母はいいます。それだけに、その男の子のやさしさが心に染みたのでしょう。走り去っていく男の子の後ろ姿に、「思わず手を合わせたわよ」と母は語ったのでした。