幸福とは、欲望を充足させることだと世間では思われています。はたしてそうでしょうか。
昔話にこんな話があります。
ある村はずれに二つのお地蔵さんが立っていました。一方のお地蔵さんは願満地蔵といって、なんでも願い事を叶えてくれるお地蔵さん、もう一方は、願断ち地蔵と呼ばれるお地蔵さんでした。当然のことながら願満地蔵には沢山のお供えがあり、村人たちは毎日のようにこのお地蔵さんにいろんなお願いをしました。でも願断ち地蔵の方は哀れなもの、誰一人、お詣りするものもないありさまでした。
願満地蔵のご利益は霊験あらたかで、人々は次々に願いが叶い、豊かな暮らしをするようになったのです。ところが人間の欲には限りがありません。お詣りする人たちは、自分こそが村一番の金持ちになりたいと願うようになりました。そこで秘かに自分と仲の悪い人に不幸な出来事が起こらないかと期待したのです。村人のみんなに、そんないやしい心が起こりました。すると願満地蔵は、この心に感応して、すぐにその霊験をあらわしてしまったのです。村人皆が他人の不幸を願っていたので、いつの間にか、その願いどおり、村全体に悲しい出来事が次々に起こり、豊かな村は、たちまち貧しい村に落ち込んでしまいました。どうして、こんな事になったんだろうとお地蔵さんの前に集まった人々はグチを言いあい、こんな事なら、この願満地蔵を川の底に沈めようと話し合いました。その時、村人の一人が言いました。「おらの爺さまから聞いた話だが、困った時には願断ち地蔵さまがご利益があると言うことだ。苦しい時は願い事を全てすてると楽になるちゅう話だ。そんな悩みをあの地蔵さまは叶えて下さると、おら聞いただ」それを聞いた皆は、その時、はじめて、この村はずれに二つのお地蔵さまが立っている理由を知ったのです。
願い事を叶えて下さるのもお地蔵さまなら、私たちの欲望の炎・もがき苦しむ心を鎮めて下さるのもお地蔵さまだったのです。
童唄にあるように、いつもニコニコ見守っているお地蔵さまに恥ずかしくないような心を持ってお互い暮らしたいものですね。