「スパゲティにはなりたくない」これはお医者さん達がよく使う言葉だそうです。病院のベッドの上で、患者さんは、スパゲッティのように、いろんな機械のチューブをつけられ治療を受けます。それが助かる病気ならまだしも、不治の病と分かりながら、愛する人々から隔てられ、ただ死を待つようでは非人間的ではないかという意見が出ているのです。昔から「どうせ死ぬなら、畳の上で死にたい」ということがいわれますが、これは「スパゲッティになりたくない」という言葉と相通じる人間の願いがあると思います。
そこで人間らしい死を迎えさせるためにはどうしたらいいかという一つの試みとして、今、アメリカやイギリスでは、不治の病に冒された患者さんや、死を間近に控えている人のためのホスピス運動というのが盛んに行われています。これは医療は勿論ですが、何より大切なのは、病に冒されている人の精神的安らぎを第一に考えようという運動です。ところが、このホスピス運動が一部では誤解されて伝わっています。それは、「ただ安楽な死を迎えるための施設づくり」だと思われているからです。たしかに楽に死ねることは私たちの願いかもしれません。しかしホスピスは、それだけのものではないのです。死を迎えるその時まで「人間らしく生きさせてあげよう」とまわりの人々が気を配ってあげる運動なのです。たとえば、体の苦痛をやわらげるためのモルヒネ剤が、不治の病の患者に投与されることが認められたとしても、それで心の病まで救ってあげることは出来ないのです。その点において医学の力だけでは、どうしても限界があります。
そこで西洋では、医者と宗教者とがタイアップして、この問題の解決にあたろうと運動を起こしたのです。私たち日本人は、医学と宗教というと、水と油のように受けとりがちです。しかし、これからは、この二つが協力すべき時代が来ているのではないでしょうか。お釈迦さまは「体の病は医者が治し、心の病は私が治す」と宣言された方です。小さな歩みながらも、仏教界でも、ホスピス運動が誕生しました。〈ビハーラ〉といいます。これは、サンスクリットで〈休養〉という意味です。死という避けがたい問題に直面している人々に、安らぎを与えようという意味なのです。
科学も医学も万能ではありません。スパゲティにならないために、畳の上で死ねるように、生きている今を、仏さまの教えで照らすホスピス運動を起こそうではありませんか。