「わざとらしい」という言葉の「わざ」という言葉は、どんな漢字を当てるのか、知っていますか。
それは、「態度」の「態」という字を書きます。「わざとらしい」といえば、いかにも意識したようで不自然だという意味で使われる言葉ですが、その「わざ」が態度の「態」という意味ならば、私は、それが生活の中に、そういうけじめがあっていいのではないだろうかと考えるようになったのです。
実は、先日、檀家さんの娘で結婚式の司会をしている人から面白い話を聞きました。彼女がいうには、式のフィナーレとなる両親への花束贈呈を嫌がる新郎新婦は多いのだそうです。
その理由として第一に挙げられるのが、「わざとらしいから嫌だ」とか、「照れくさい」という言葉。結婚式にお呼ばれして、何度も、そのシーンを目にしている私も、このパターン化した儀式に、「またかよ」という気持ちがありますから、新郎新婦の拒否したがる気持ちが、なんとなく分かります。
でも、司会を担当している彼女は、いったのです。「こんな人生の出発的となる式で、両親へのお礼の儀式ができないようなカップルが幸せになれると思いますか」と。
彼女には、数え切れないほどの結婚式のお世話をしてきたという自信があります。その彼女が、私にそっと打ち明けてくれました。「だから、嫌がるカップルには、こんな話をするんです。華やかな壇上からお客様をお送りする出口に移動するまで、ご両親を無視して歩きますか。今、お幸せな気持ちは分かります。でも幸せにしてくださった親御さんへ、ほんの一言、アリガトウと頭をお下げになることが、もっとお幸せになれる道だと思うんですけどと申し上げるんです。要らないお節介でしょうか」と尋ねる彼女に、「そう、その通りですよ」というと、「そうでしょう。お上人さんは、この間、家のご法事にいらした時も、そんなお説教をなさいましたから」と納得したような顔をしたのです。そして、それよりも彼女を凄い人だなと思ったのは、「大事なのは、新郎新婦が花束を持って、スポットライトの中を歩む時のナレーションなんですよね。大抵の場合、司会者の私に適当にやってよといわれることが多いんです。でも、二人の幸せを祈るなら、ここが司会者としての私の見せ所、そう思って、お上人さんのお説教を利用させてもらっています」という言葉でした。
その司会者によって、最高の感激に達する新郎新婦とその親御さんたち。その場面を想像した時、思わず、「幸せなら態度で示そうよ」というあの歌の文句が、私の頭には浮かんだのでした。