先日、お寺の門前にある掲示板に、「生きる金、そんなにいらず、栗を剥く」という句を書き出してみました。この句は、新聞の読者の俳句コーナーに出ていたものですが、「いい句だな」と思って書かせてもらったのです。
ところが、掲示板で、その句を目にした人が、門を入り、お寺の中にやって来たのです。見れば、おとなしそうな中年の男性です。
「住職さんにお聞きしたいことがあります」という言葉に、「なんでしょうか」と私が応えると、「掲示板の句の意味が、よく分からないのですが、教えていただけませんか」というではありませんか。これは困ったなと思いました。なんといっても、この句の作者は私ではありません。でも、掲示板に書いた以上、それを説明する責任はあります。そこで、「まあ、お上がりなさい」といって、お茶をだしながら、人生問答をしたのです。
この人がいうのは、「私はお金が欲しい。それも沢山欲しい。そんなにいらないという気持ちが分かりません」との疑問でした。「それは私だって欲しいですよ」と答えると、「そうでしょう」といわんばかりの顔で私を見上げました。「でも、そのお金ゆえに、いろんなトラブルが起こるんです。あなただって、その年になればそんな事を見たり聞いたりなさっているでしょう」と尋ねると、その人は、素直に頷きました。
「実は、この句は私が詠んだのではありません。私の心に響いた句だといってもいいでしょう。この句の作者が、どんな人だかは知りませんが、その作者の心の中をのぞいた気がしたんです。ひょっとしたら、作者は、私たちと同じようにお金が欲しい、お金が欲しいと悩んでいたかもしれませんよ」というと、相手は、「そうでしょうか」という顔をしました。
「でも、なにか心に大きな変化を起こすような事があったんでしょう。栗を剥きながら、もういいやと独り言でもつぶやいたんじゃないでしょうか。それが『そんなにいらず』という言葉に託されているような気がするんですが・・・」というと、この人は、「なるほど」と答えながら、目の前の霧が晴れたような顔になりニッコリとして、「するとご住職、この人は栗の皮を剥くというよりも、金に捕らわれていた自分の心の皮を剥いたのかもしれませんね」といったのです。
いやあ、この言葉には、私の方がびっくりしました。教える方が教えられるというのは、こんな時をいうのでしょうか。本堂に手を合わせて帰るこの人の後ろ姿に私も思わず手を合わせてしまったのです。